ばたばたと、城の廊下を急ぎ足で駆けていく白兎。
目指すのは、ひとつの部屋。ひとつのドア。
ひとりの、少女。
ペーターは目的の部屋の前にようやく辿り着き、静かに扉を開ける。
すると、彼の目に入ってきたのは、バルコニーに立つ青い少女の姿。
窓を開けているため、外から入ってくる微風が、優しくカーテンを揺らしている。
世界は未だ夜の帳に包まれていて、星の光と月の光が彼女を照らす。
そして、彼女が一心に視線を向けているのは、銀の満月。
さっきもこれと良く似た光景を見た気がする、と彼は思った。
こんな、一枚の絵画のような、光景を。
ペーターが扉を開けた音に気づいたのか、彼女はゆっくりと彼の方を振り返る。
「ペーター?」
「・・・まだ、起きていたんですか」
彼女は元の世界の習慣が抜けきらないらしく、ころころと不規則に時間帯が変わるこの世界でも、
たいてい、夜になると眠りについている。
「・・・眠れなかったのよ。心が落ち着かなくって」
そう言って、ふわりと微笑んだ。
「ペーターも、戦闘に駆り出されていたの?」
「ええ、僕は宰相で、本来なら戦闘要員ではないとはいえ、・・・役持ちですから、ね」
こんな時ですし、と彼も微笑んだ。少し、疲れたような表情ではあったけれども。
「・・・ペーターが帰ってきた、ということは、終わったのね」
「はい、終わりました。・・・城はひとまず、大丈夫です。何とか、乗り切れたようです」
「・・・そう、良かった・・・」
彼女が小さなため息をつく。安堵のため息を。
「ペーターは、大怪我とか負ったりしていない?大丈夫?」
「大丈夫です、まあ、全くの無傷ではありませんが・・・これくらいなら、平気です」
「・・・本当?治療はちゃんと受けた?
駄目よ、傷を放置して痕が残ったり、悪化したりしたら大変だから」
「応急処置だけは済ませてきましたので、大丈夫ですよ。お気遣い、有難うございます」
「・・・ちゃんと治療を受けなさいって言ってるのに、もう・・・」
そして、彼女は彼に尋ねてしまう。
「そういえば、エースは?」
「・・・・・・っ、」
「無事でしょう?だって、馬鹿みたいに強いじゃない、あの人。
もしかして、まだ帰ってきてないの?」
「・・・・・・」
ペーターは無言のまま、月光に照らされるバルコニーに立つ彼女の元へ歩み寄る。
「まさか、帰り道で迷子に、なんてことはないわよね?
一緒に戻ってきたんでしょう、ねえペーター、」
「・・・これを、」
「え、」
「これを、あなたに渡すように、頼まれました」
そして、ペーターが彼女に差し出したのは。
「これ、・・・赤い、薔薇?」
彼女が受け取ったのは、一輪の薔薇。
「・・・いいえ、それは元は白い薔薇だったんですよ」
「・・・本当だ」
月の光に照らされたそれは、一見赤薔薇に見える。
しかし、よく見ると、確かにそれは、元は白の薔薇。
そう、それは、赤い血に染められた、白い薔薇。
「ようやく全部終わったと思ったら、あの馬鹿な迷子の姿が見えなかったんです。
辺りを見回してみたら、血の跡が森の奥に向かって続いていたので、
それを辿って行ったら、森の一部が、開けている場所に着いて。
白い薔薇が一面に咲き誇っている場所に、辿り着いたんです。
その中に、居たんですよ、彼が。
そして、それをあなたに渡してくれるよう、頼まれました」
「・・・・・・」
「周りには、まだ綺麗な状態の白い薔薇もたくさん生えていたのに、
これだから意味があるんだ、なんて言ってました」
この、赤に染まった薔薇だからこそ、意味を持つ。
「・・・!」
ペーターの言葉を聞いて、彼女の脳裏にひとつの記憶が甦る。
―「花言葉ってあるでしょう?
それって、同じ種類の花でも、花の色が違うだけで花言葉が変わったりするのよ」
いつだったか、薔薇庭園で彼と彼女が交わした会話。
「へえ?同じ花なのに?」
「そう、例えば薔薇とかね。
白い薔薇だと、“私はあなたに相応しい”とか、“純潔”なんていう花言葉になるみたい」
「じゃあ、この赤い薔薇だと?どんな花言葉になるんだ?」
「赤い薔薇は・・・」
少しだけ、恥ずかしそうに顔を赤らめて彼女が口を開く。
「“愛情”よ」
他のどんな赤薔薇よりも、深い赤で染められた薔薇。
この一輪に託された想いに、
彼が、もう此処には戻ってこないことに、
彼女が気づいた、その瞬間。
ぽたり、と透明な雫が一滴だけ落ちて、赤い薔薇を濡らした。
でも、それ以上、彼女の目からは雫は零れ落ちなかった。
目元に多量に溜めながらも、それらが落ちないように、必死に耐えている。
これ以上薔薇に落としてしまったら、薔薇の色と共に、彼の想いが薄れていってしまうような気がして。
だから、彼女は耐える。
その光景は、痛ましくも、愛おしい、光景。
「ペーター、ありがとう。これを、届けてくれて」
そして、彼女は目に涙をいっぱいに溜めながら、ペーターに微笑みかける。
「・・・どういたしまして、」
ペーターも、微笑み返す。二人のどちらが浮かべているのも、痛ましい、今にも泣きそうな、笑顔だったけれど。
「まだ、此処に居たほうがいいですか?それとも、一人にした方が良いですか?」
「私は一人でも、大丈夫よ。ペーター、まだ色々と忙しいんでしょう?」
「・・・分かりました。じゃあ、いつでも用があったら呼んでください。すぐに駆けつけますから」
「ありがとう」
白兎は、月光に照らされるバルコニーから立ち去っていく。
そして、夜の世界にひとり残された青い少女。
「帰ってきたら、言ってあげるって、約束してたのに。あっさり破ったわね、あいつ」
そう言って、彼女は月へと視線を移す。
今、濃紺の星空に浮かぶ月は、本当に美しい。銀色にも、薄青くも見える、幻想のような光景を作り出している。
「ようやく、言う決心がついたのに」
風が吹いてきて、彼女の、微かに金色を帯びた茶色の髪を揺らす。
無意識のうちに、薔薇の棘に覆われた茎を握り締めてしまっていたらしく、
彼女の傷ついた手から赤が、薔薇の茎を伝い、床へと零れ落ちていく。
「・・・ごめんなさい、」
彼女の目の前に、赤い騎士は居ないけれど。
「好きよ、エース」
ずっと言葉に出来なかった二文字は、風に乗り、夜空へと消えていく。
bocciolo di rosa
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