今は、太陽が世界全体を照らし、支配する時間帯。
この時間帯に外へ出るのは面倒だし、嫌いだと彼は公言している。
それでも、彼・・・ブラッド=デュプレの姿は彼の屋敷の中ではなく、広大な庭の中にあった。
誰を連れて歩くわけでもなく、彼は一人で庭を歩いて行く。
その足取りは決して急いではいない。だが、ブラッドはゆったりと散歩を楽しんでいる訳ではなかった。
彼の纏う空気は、いつものだるそうな雰囲気とは少し種類の違う、重々しさを持っている。
視線は、真っ直ぐに前を見据えている。
暫く歩いて行くうちに、彼の目指す場所が姿を現した。
「・・・・・・」
無言のまま、ブラッドは目的のものの前で屈みこむと、ゆっくりと、それに触れる。
ひんやりとした感触が手のひらに一瞬にして伝わった。
無機質な・・・生きているもののような温かさなど微塵も感じられない。
「・・・・・、当然だな」
そう呟いた彼の唇から、自嘲めいた笑いが零れる。
命を失ったものがそこに在る、ということを示す墓標が、生き物のような温かみを帯びている訳がないのだ。
彼女は、この小さな墓標の下で永遠の眠りについている。
ある日、マフィアの本拠地であるこの屋敷の門前にふらりと現れた少女。
生命の危機をぎりぎりで乗り越えた幸運の持ち主、アリスは異世界からやって来た余所者だった。
青のエプロンドレス、頭には服と同色のリボンを結ぶという、可愛らしい『お嬢さん』な見た目とは裏腹に、
中身は妙に冷めたところのある現実主義者。性格が良いか悪いかと訊かれれば、
悪い方寄り、いいや普通に悪い方だ、と自分で堂々と言い切ってしまうかのような、
そんな、少女だった。
自分が滞在しているのはマフィアの本拠地であり、
ブラッドはその巨大なファミリーのトップであると知ってからも、
アリスは特に態度を変えることもなく、ブラッドの姿を見つければ気軽に声を掛けてきた。
そんな彼女に、彼が惹かれていくのにそう長い時間はかからなかった。
「もし、私のせいで君が死ぬようなことになったら、君はどうするんだろうな」
テーブルには、様々な種類のお茶菓子と、とびきり上等な紅茶。
濃紺の空で、数え切れないくらいの星たちが瞬いている。
今、この真夜中のお茶会の席に着いているのは、二人だけ。
マフィアのボスと、余所者の少女。
他愛もない話をしながらゆっくりと紅茶を飲んでいた二人だったが、
唐突に、ブラッドはこんなことを言い出した。
「・・・・・急に何よ」
「単なる私の興味だ。大した重要性をもった質問ではないよ。
まあ答えてみてくれないか、お嬢さん」
「・・・・・自分自身の生き死にちょっとでも関することを重要じゃないとか言われるの、何か腹が立つわね」
そう言いつつ、アリスは少しだけ考えるそぶりを見せた後、こう答えた。
「心臓が止まる最後の瞬間まで、貴方への恨みつらみを言葉にし続けるでしょうね。
あの世でずーっと恨んでやるから、呪ってやるわ、生きながらに地獄を見れば良いのよ、・・・みたいな。
こんな程度じゃない、もっと凄いことも言うかもしれないわね。
死ぬ寸前だものね、普段なかなか口に出来ないようなことまで言ってしまいそう」
「・・・ふふ、命が尽きるその時まで君の思考は私で埋め尽くされているということだな?
そこまで私を想ってくれているなんて嬉しいよ、お嬢さん」
「・・・・・・いっぺん、殴っても良いかしら」
愉快そうな笑顔を浮かべているブラッドとは対照的に、不愉快そうに紅茶をすするアリス。
でも、彼女の頬は少しだけ赤く染まっていた。
二人だけでお茶会を開いて、ゆっくりと過ごす。
こんな光景は、二人にとって当たり前のものだったのだ。
あの日までは。
「アリスッ!!」
ブラッドが、地面に倒れ伏したアリスの身体を抱き起こす。
「・・・ブ、ラッド?」
ブラッドの声を聴いて、微かに目を開いたアリス。
彼女の体にはもうほとんど力が入っておらず、ぐったりとしている。
しっかりしろ、と何度も呼びかけるブラッドには、もう分かっていた。
もう、彼女の命は尽きる寸前だということを。
たまには一緒に出掛けようと、街中を歩いていた帽子屋ファミリーの役持ちの面々とアリス。
双子がエリオットをしょっちゅう挑発して遊んでいたので、
穏やか・・・と言うには少々騒がしかったが、
確かに、何事にも代えがたい大切な、楽しいひと時だった。
そんな時間を突然に破壊したのは、一発の銃声。
帽子屋ファミリーと対立する勢力の者が撃ったその銃弾は、
アリスの心臓を、確かに撃ち抜いた。
「アリスッ、しっかりするんだ、アリスッ!!」
ブラッドがいつも纏っているあのだるそうな雰囲気はとっくに消え失せていた。
普段の彼を知るものが見たら、別人のようにも思えるほど、今の彼は余裕がなかった。
何度も何度も、彼はアリスの名前を呼び続ける。
半ば叫んでいるようにも聞こえるほどに強く、必死に。
「ブラッド・・・」
アリスも、彼の名前を呼ぶ。
その声にはほとんど力がこもっておらず、儚くて弱弱しい。
エリオットや双子たちに敵への応戦を任せ、
ブラッドはアリスを建物の陰へと連れて来ていた。
「ごめ、んね・・・私は、もう、・・・駄目みた、い」
「もういい、それ以上喋るな!すぐに治療を、」
彼女の声は途切れ途切れで、誰が見てももう長くは持たないと分かるほどだった。
それでも、彼女は残された力を振り絞るようにして、赤に染まった右手をブラッドの頬へと伸ばす。
ゆっくりと触れてきた彼女の小さな手を、彼は大きな手で包み込むように握った。
「ブラッ・・・ド、」
最期の言葉は、もう声にすらなっていなかった。
“ ”
彼女はその言葉を紡いだ後、ふわりと微笑んだ。
そして、ブラッドだけを映していた二つの青い瞳が、ゆっくりと閉じられた。
「・・・心臓が止まる最期の瞬間まで、私に呪いの言葉を浴びせてやるとか、言っていたのは君だろう」
あの時。
アリスはブラッドに対して罵詈雑言など一言も浴びせはしなかった。
ただ、優しい言葉だけを残していったのだ。
「・・・しかし、本当に凄いお嬢さんだ。君はもう私の隣にはいないというのに」
私を、雁字搦めに縛り付けている。
眼には見えぬ透明な鎖で、今もずっと。
此処には居ないのに、ブラッドの心を独占し続けている。
帽子屋屋敷で、アリスと親しくしていた者たち全てが、彼女の死を嘆き悲しんだ。
それでも、日が経つうちに、その事実を何とか受け止めて乗り越えていった。
帽子屋屋敷には、以前と変わらぬ日々が戻り始めている。
しかし、ブラッドだけが他の者たちとは違っていた。
彼の哀しみは、日が経てば経つほどに色濃くなっていく。
周囲にはもう彼女の死から立ち直っているように見せてはいるが、
そんな風に装うのも、限界に近づき始めていた。
アリスが触れたものや、アリスを思い出させるものを目にする度、
彼の心はぐらぐらと揺れる。
彼女のことを思い出す度、息が苦しくなる。
「可笑しなものだな。最初は、私が君を縛り付けて、君のすべてを支配しようとすら思っていたのに、
実際は、正反対だ」
縛り付けられているのも、支配されているのも、彼の方。
「・・・だがな、私にとってこの状況は限りなく耐えがたい」
ブラッドは右手のステッキを持ち直す。
それは一瞬にして彼愛用のサブマシンガンへと姿を変えた。
そして、その銃口を彼自身の胸へと突き付けた。
「どのようにすればこの鎖を解くことが出来るか・・・それを考え続けて出た答えが、これだった」
彼は、引き金にかけた指に、力を込める。
「・・・・・・“ ”、アリス」
そう呟いたブラッドの顔は、マフィアのボスには似つかわしくない、穏やかな笑みを浮かべていた。
透明な鎖
(目には見えなくても、確かに私を縛り付けている、君という存在)
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