ゆっくりと目を開くと、私の周りはすべて、蒼に染まっていた。
私が今も身に着けているエプロンドレスの色よりも、もっと濃い・・・藍色に近い、蒼色。
ずっと上方から、微かな光が射し込んでくる。
私の口から零れ出た気泡は、光源の方へ、ゆらゆらと揺らめきながら向かっていく。
ああ、此処は・・・海の、中だ。
自分の置かれた状況を認識したその瞬間、急に息苦しさを覚えた。
・・・当たり前だ。私は水中で一生を過ごす魚ではないのだから、海の中で呼吸を続けることなど、不可能だ。
早く、あの光が差し込んでくる方へ、水面の方へと向かわなくては。
このままでは、溺れ死んでしまう。
そう思っているはずなのに、体は上手く動いてくれない。
今、自分が沈んでいるこの海は、暖かくて、心地よくて・・・
この状況から抜け出すのが、とても惜しく感じる。
出来る事なら、ずっと、このまま・・・そんな風にすら、思えてきてしまう。
私は、何度もこの状況を味わったような気がする。
(・・・変ね。海に沈んでいく経験なんて、一度もないはずなのに)
それでも、この感覚を、私は知っている。
息苦しく、長いこと続けるには少々辛いはずのことなのに、
ただただ、この状況に浸ったままで居たいと思わせる、この感覚を。
そう、私がこの感覚を味わうのは・・・
「・・・んっ、・・・」
世界には夜の帳が下りていた。
静かな部屋の中で聞こえるのは、唾液の絡まる音と、時折唇から洩れる、甘ったるい吐息だけ。
「・・・っは、ぁ・・・」
長いこと塞がれていた唇がようやく解放され、大きく息を吸い込んだ。
呼吸はこれ以上無い程に乱れ、体中が熱い。
「大丈夫?アリス」
呼吸を整えようとしている私に、ボリスが声をかけてくる。
「大丈夫か、ですって・・・?
こうなってるの、誰の、せいだと思って・・・っ」
「勿論、俺のせいだよね。俺以外の奴に、こんな状態にさせられたりしないでよ?」
そう話しているボリスは、とても楽しそうな笑みを浮かべていた。
随分と長いことキスを続けていたはずなのに、彼の息は全く乱れていない。
彼を睨みつけてみるが、どうやら酸欠のせいで潤んだ瞳では迫力不足らしい。
彼は余裕そうな笑顔を浮かべたまま。
そんな素振りが、少しだけずるいと感じる。
「あんた以外に、こんなことする人、いないわよ・・・。
ていうか、急に・・・キスとか、してこないで」
「えー?何で?俺達、付き合ってるんだし、何にも問題ないだろ?
此処は別に公共の場とかでもなく、俺の部屋だし」
「そうじゃなくて、・・・いきなりっ、深いのしてくるのは、止めてよ」
ああ、口に出すと本気で恥ずかしい。ただでさえ赤いであろう顔が、余計に赤みを増した気がする。
「・・・何で?何で、駄目なの?」
ボリスの笑みは、より一層楽しそうなものになっている。
ニコニコ、っていうより、にやにや、みたいな。
・・・絶対私の反応を見て楽しんでいる。この馬鹿猫・・・
答えたくない。絶対、答えたくない・・・
「答えてよ、アリス。どうして?」
それでも、しつこく訊いてくるボリス。こうなると、絶対に此方が折れるまでこの状況は続く。
「・・・その、いきなりされたら、吃驚するし、こういうの、慣れてないし」
「それなら、早く慣れてよ。そうしたら吃驚もしなくなるだろ?何の問題もなくなる」
「や、そんな簡単に慣れろって言われても無理だから」
「じゃ、慣れさせてあげるよ」
「え、ちょ・・・っ!」
ボリスはまた私の唇を塞ぐ。
唇が触れ合うと同時に、熱い舌が口内へと差し込まれる。
「っ、ふ・・・ぁ・・・」
自分の口から、こんな甘ったるい声が洩れ出ていると思うだけで、顔から火が出る程、恥ずかしい。
酸素不足で、だんだんと頭がぼんやりとしてくる。
少しだけ、唇が離れる。
「・・・どう?慣れそう?」
「慣れるわけ、っないでしょう・・・」
「・・・えー。
・・・まあ、こういう初々しい反応も可愛いから、慣れても慣れなくてもどっちでも良いかな」
「じゃあ、もうこの辺で止め」
「止めないよ?この程度じゃ、まだまだ足りない。
もっともっと、・・・ね?」
彼の浮かべている笑顔は、有無を言わせないものだった。
・・・また、あの海へ沈む感覚を覚えた。
どんどんと息苦しくなるのに、ずっとこのままこうしていたいと思わせる、あの感覚。
ボリスのキスは、私を深い海へと沈めていく。
どこまでも、深く。光りすら届かない水底へと。
それでも、
I sink into you.
貴方という海になら、溺れても良いと思うの。
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