いつもポケットに収めている、可愛らしい小瓶。
光に翳せば、少し眩しいくらいにキラキラと輝く。
ガラスの小瓶自体も、中身の液体も。


この世界・・・『ハートの国』へ来た時、ペーター=ホワイトに飲まされた薬は、この小瓶に入っていたものだ。
元々入れられていた薬は、・・・私自身がそうしようと思ったわけではなかったけれど、
一滴残らず飲み干したはずだった。


けれど、この世界で過ごしているうちに、
空っぽだった薬瓶には本当に少しずつ・・・でも確実に、新たな液体が溜まっていった。
勿論、私が自分で液体を足している訳ではなく、
他の誰かが私の眠っている間に注ぎ足している訳でもないようだ。
つまり、この液体は、勝手に溜まっていっていることになる。
私が、此処で時間を過ごせば過ごすほど、液体はどんどんと嵩を増していく。



勝手に液体が溜まっていくという、この不思議な現象が示すこと。
誰に教わったわけでもないが、ここで過ごす時間が長くなっていくうちに、
私にはその答えが何となく分かってきたような気がする。






この小瓶が液体で一杯になったとき、私は元の世界に戻ることが出来る。





初めてそのことに気づいた時、私は心の底から嬉しいと感じた。
こんな物騒で可笑しな世界から、元居た世界へと帰ることが出来るのだ。
私が生まれ育った、あの世界へ。
姉さんの居る、あの暖かな日曜の午後へ。



その日から、日に日に溜まっていくガラスの小瓶の中身を眺めては、
また、元の世界へ戻れるときが近づいた、と胸を躍らせていた。
最初のうちは、確かにそうだったのだ。





何時からだっただろうか。

中身の増えていくガラスの小瓶を見るたびに、

胸が締め付けられるような思いをするようになったのは。






「アーリス」
「わわ!?」

目の前の本に熱中していた私の意識を引き戻したのは、突然の後方からの抱擁。

「ちょっと、ボリス!
いきなり抱きつかないでよ・・・吃驚するじゃない」
「そりゃ、吃驚させようと思ってやったから」

あんた、ずーっと読書しっぱなしなんだもんな、とため息交じりの声で言われる。

「あんたが読書好きなのは知ってるけどさ、俺の相手もしてよー・・・つまんない」
「・・・はあ」

・・・あまり機嫌を損ねると、あとが面倒だ。色々と。
ページに薄い紙製の栞を挟んで、すぐ横のテーブルへと本を置いた。




・・・ところで、今私はソファに座っている。
ボリスは私の背後に居るので、ソファの背もたれを間に挟んで、
私の首あたりに手を回していることになる。
・・・物凄く、辛くて面倒そうな体勢になっているのではないだろうか。

「・・・その体勢、疲れない?隣に座ったら」
「いや、良いよ。今はこうしていたいから」
「・・・なら、良いけど」

ボリスの体温は、穏やかな午後の陽だまりのようで、心地よい。
彼もこの状態で良いと言っていることだし、私もそれ以上は何も言わなかった。








「アリス・・・」
「・・・・何?」
「ん・・・呼んだだけ」

ボリスの声は、何でだかぼんやりとしていた。

「・・・そう?」

私も、同じようにぼんやりとした声で返す。
何でか、今の状況は輪郭のぼやけた・・・夢のようにすら感じた。
彼の体温、彼の声、私の声、私の心、全てがすべて、ぼんやりしている。







「アリス」
「んー・・・?」
「・・・何でもない。呼んだだけ」
「・・・さっきも、そう言ったわよね」

・・・もしかして、眠いのだろうか。







「アリスー・・・」
「・・・また、呼んだだけ?」
「ううん・・・今度は・・・」


そう言いかけておきながらも、ボリスはなかなか先の言葉を続けない。

「ボリス、もしかして眠いとか?それなら寝た方が良いんじゃないの」
「いや、眠くはない・・・けど」
「・・・いやいや、無理はしない方が・・・今にも消え入りそうな声出してるわよ?」
「・・・違うよ」

急に、長いことぼやぼやしていたボリスの声が、少しだけ輪郭をはっきりさせたような気がした。

「何が?」




「消えちゃいそうなのは、あんた」
「・・・え」

いつもなら、「何言ってるのよ、やっぱり寝ぼけてるんじゃないの?」なんて、茶化すところだった。
だけどその時のボリスの声は、とても真剣なもので。
とても、ふざけて言っているようには聞こえなかった。


「・・・自分でも、変なこと言ってるって自覚はあるんだけどさ。
 でも、何でかよく分からないけど・・・不安なんだ」

私の首の辺りに回された彼の両腕の力が、少しだけ強まったような気がした。

「あんたは今、確かに此処に居るのに、どうしても落ち着かない。
 今、この手を離したら、

 名前を呼ばなかったら、

 一瞬で、煙みたいに消えちゃうんじゃないか、なんて考えが、頭から消えなくって」

その言葉を聴いて、私の心臓はドクン、と大きく跳ねたような気がした。






ボリスは、ちゃんとした確信はないものの、何となく感づいている。

私が、もうすぐ此処から居なくなることを。

元居た世界へ、帰ることを。









この世界を、好きになりすぎてはいけない。

この世界を、実際にあるものだなんて思ってはいけない。

この世界に、心を奪われてはいけないのだ。


此処から、元の世界へ帰る時・・・この夢から覚めた時、
「ああ、楽しい夢だったわ」と思えるように。
決して、「ずっとあの世界に居たかった」なんて、思わないように。
この世界を、好きになり過ぎてはいけない。




人は、ずっと楽しい夢の中で生きていくことなど出来ないのだ。
辛く厳しいことの多い、現実と向き合って生きていかなければならない。
だから、今私が居る、私に優しい世界は、このハートの国は、幻想だ。
ずっと続いて行くものではない。いつかは覚める夢。



そう、自分自身にずっと言い聞かせ続けていた。

なのに。


私の夢の一部であるはずのボリスの声に、私の心はぐらりと揺らぐのだ。



楽しそうに笑う声に、

甘ったるく愛を囁く声に、

私の名前を、呼ぶ声に。

いつも、私は。



このままでは、儚い夢に、何もかも囚われてしまう。
それだけは避けなくてはと、思っているはずなのに、
私は、彼と距離を置くことも、彼を突き放すことも、ままならなくなっている。
すぐに、この夢から覚めて、現実へと戻らなくてはならないのに。
ボリスと過ごしたひと時を、全て忘れることになるというのに。





「アリス」

ボリスが、私の名を呼ぶ。
彼の表情は、此方からは見ることが出来ない。
振り返れば見られるのだろうが、振り返ってはいけない気がした。
彼は今、どんな表情を浮かべているのだろうか。






「あんたは・・・消えないよな?」

「・・・っ」




消えないわ。

貴方の傍に居る。

離れたりしないから。

ずっと、ずっと。一緒に。




そう答えたら、ボリスの不安を消し去ることも出来るのだろうか。
そうだとしたら、そう答えてあげたい。
・・・でも、そう答えてしまったら、その言葉は嘘になる。
私は、帰らなくてはならない。
元の世界での責任を、果たさなければならないのだから。




どうか、私がこの世界を現実だと思う前に、

この夢から、覚めて欲しい。

どうか、彼が私の心をこの世界に留まらせる前に、

この夢から、覚めて欲しい。


どうか・・・






この言葉を認める前に

(帰りたくない、この人の傍に居たい)
(それを認めてしまったら、きっともう帰れなくなるから)


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