時々森まで出向き、俺やピアスに会いに来る彼女。
彼女はこの世界では『余所者』と呼ばれる人間だ。
ここではない別の世界からやって来た者、『余所者』。
彼女がこの世界にやって来たのは、俺が『遊園地』に居候していた頃・・・
『ハートの国』に居た時だった。
彼女は残念なことに、遊園地を滞在場所に選んではくれなかったのだけれど、
それでもしょっちゅう俺や家主でもあったゴーランドのおっさんを訪ねて来てくれた。
一緒に広い遊園地の中を駆け回って、時にはゴーカートで暴走したり・・・なんてこともあった。
彼女が元居た世界とこの世界とでは、色々なことが違っているらしく、
最初のうちは彼女も困惑している様子が多々あったけれど、
此処にいる時間が長くなるにつれ、この世界に馴染んでいったようだった。
最近じゃ、この世界に愛着も湧いてきたわ、と微笑んでいたことは記憶に新しい。
そして彼女は元の世界に戻らず、この世界に、『ハートの国』に残ることを決めた。
そんなときに起こったのが、『引越し』。
時計の針が回るように、土地が回ったのだ。
遊園地の居候だった俺は弾かれ、おっさんや遊園地の連中たちと離れた。
そして、新たに現れたこの森に住み着くことにしたのだ。
―久々に出会ったピアスを追いかけて遊ぶことも出来るし、此処での暮らしもなかなか悪くないよ。
弾かれるのだってこれが初めてじゃないし、俺が居なくても遊園地はいつもと変わらず営業をしているはずだ。
別に俺もおっさんも子供じゃないんだし、おっさん達に会えなくても寂しくないよ。
元々、猫は一匹でも平気な生き物だからね。
そう言ったら、彼女は少しだけ寂しそうな表情を見せたのだ。
何故彼女がそんな顔をしたのか、俺にはよく分からなかった。
時々、彼女の考えることがよく分からない時がある。
何時だっただろうか。
彼女のエメラルドブルーの瞳が少し赤くなっていたことに、最初に気づいたのは。
「・・・ん」
頬を撫でていく、少しだけひんやりとした微風がくすぐったくて、まだ重い瞼をゆっくりと開いた。
瞳が外気に晒されると同時に、少々眩しいくらいのオレンジ色の光が目に突き刺さる。
夕日の光のあまりの眩しさに一瞬目を細めた。
何時の間にやら、木の太い枝の上で眠ってしまっていたらしい。
確か、最初に此方へ上ってきた時は夜の時間帯だったはずだ。どれくらい眠っていたのだろう。
・・・まあ、特に予定もないから、どれほど眠り続けていようと誰に咎められる事もないけれど。
そろそろ下りて、ピアスでも探していつもの追いかけっこをしようか、と思ったそのとき、
すぐ傍の木の下で、青いワンピースを着た女の子が座り込んでいるのに気づいた。
金色と茶色の混ざった綺麗な髪がさらさらと風に揺れる。
どうやら、その子は自分のよく知る女の子のようだ。
呼びかけようと口を開きかけて、止める。
何だか、彼女の・・・アリスの様子が、いつもと少しだけ、違う気がした。
彼女は眠っているわけでもなく、ただただぼうっとしている。
空のある一点を見つめてはいるものの、その視線の先には特に何もない。
アリスは何故此処に居るのだろうか。
こんな・・・迷う人間を導いたり惑わしたりするような、ドアだらけの場所で。
どうやら彼女は俺が居ることに気づいていないようだ。
俺は木から下りることも、再び眠りに落ちることも出来ないまま、彼女を見つめていた。
ひときわ強い風が吹き抜けると同時に、彼女の瞳が一瞬だけ揺らぎ、
「 」
何かを、呟いた。
その声は、本人にすらも聞こえなかったのではないかと思う程に小さい声で呟いたらしいのと、
風の音でかき消されてしまったせいで、俺の耳には届かなかった。
でも、何となく思ったのは、
アリスが呟いたのは、誰かの名前ではないかということ。
それは、今回の引越しで離れ離れになってしまった、無愛想で仕事熱心な時計屋さんのものや、
あの陽気で音楽センスが壊滅的な遊園地のオーナーのものだったのか、
もしくは・・・彼女が元居た世界に残してきた、誰かの名前だったのか。
多分、このクローバーの国には居ない者の名前だったのだろうと感じた。
帽子屋屋敷に居る者でもなく、ハートの城の人々でもなく、クローバーの塔に居る人たちでもなく、
ピアスでもなくて、そして、俺でもない。此処には居ない誰かの名前。
彼女の瞳は少しだけ潤んでいたものの、そこから零れ落ちる透明な雫は、一滴も無かった。
引越しが起こったすぐ後、俺はアリスに、此処に点在するドアについて教えた。
―この扉を開けば、あんたが一番望む場所へ行けるよ。
あんたが一番行きたいと願う場所に、ドアはちゃんと繋いでくれるんだ。
もしかして、アリスはドアを開きにきたのだろうか。
この国ではない、別の何処かへ行くことを決めたのだろうか。
・・・それは少し寂しいな、と思った。
アリスは俺やこの国で生まれた者が誰一人持っていない『心臓』を持った、特別な女の子である上に、
凄く可愛くて、ずっと一緒に過ごしていたいと思うくらいに、俺にとってはとても大事な友人。
出来ることなら、離れたくはない。
でも、俺に彼女を引き止める権利は無い。
アリスが此処ではない別の場所へ行きたいというのなら、彼女が思うとおりにするべきだ。
そこに居るほうが、彼女にとって幸せで、より良いのだとすれば、
ドアを開いてそこへ行った方が良い。
・・・俺だって、気が向けば何処へだって行くのだから。俺が行きたい場所へ。
彼女は立ち上がって、そのまま森の外へと続く道を歩き始めた。
自分が望む一番の場所へ繋がるドアに、一度も手を触れることなく。
彼女はこの場所で一人、悩んでいるのかもしれない。
ドアを開いて別の場所へ行くべきか、この世界に居るべきかを。
未だ、彼女の中で結論は出せていないらしい。
結局最後まで、アリスが俺に気づくことはなかった。
多分、それで良かったのだろう。
先ほどまでの彼女は、誰かが傍に居ることを望んでいなかったように思えたから。
きっと、先ほどまでのような状態になるのは、此処に一人きりで居るときだけなのだろう。
多分、次に他の場所で出会ったときは、いつもと何も変わらない彼女が笑顔を見せてくれるはずだ。
実際に、あんな彼女の顔は、初めて見たから。
その時も、俺が今見ていたことは、彼女にも、他の誰にも言うべきではないと思う。
今のことは、俺の中だけにしまっておく。
「・・・そうだ、」
・・・今からやることを決めた。
次、アリスにいつ出会っても良いように、何か彼女が喜ぶようなものを探して、用意しておこう。
せめて俺と居るときだけでも、ドアや、別の場所や人のことを、
彼女が辛くなるようなことを、忘れていて欲しい。
・・・あんな表情は、させたくない。
あんな寂しそうで今にも泣き出しそうな顔は、彼女に似合わない。
アリスには、笑っていて欲しいから。
音も立てずに地面へ着地してから、だいぶ小さくなった彼女の後姿に、呼びかける。
「・・・次に会う時は、笑顔を見せてよ、アリス」
心の中で。
言葉にはしないけれど
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