『俺はチェシャ猫だからね。何処へだって行けるんだ』
そう言いながら微笑んだ彼。

見ている私だけが、悲しかった。






彼、『チェシャ猫』が持つ能力は、『空間を切ったり繋いだりする』能力だという。
私は彼がその力を使う瞬間を何度も目にしてきた。
森に無数に存在するドアのひとつを、現在私が住んでいる、クローバーの街の宿屋の一室に繋げたり。
ボリスが以前から使っている部屋に繋げたり。


そして、クローバーの塔にある普通の扉の先を、以前私達が居候していた遊園地へと、繋げたり。
少々目に痛い配色のゲートや、遊園地全体に流れるBGM、アトラクションの音、お客さんたちの声を、
確かに私は見て、聴いたのだ。


彼は、望めば何処へでも行けるのだという。
そして、彼の仕事は、あちこちを渡り歩くこと。
・・・最初、私がそれを知ったときは、仕事とは思えなかったのだが。
しかし、そのような仕事をこなすということは、
『ひとつの場所に定住する必要がない』ということではないだろうか。
『彼の気が向いたのなら、いつだって別の場所へ行ってしまう』ということでは。



それ以来、彼が森から出かけていく姿を見る度、胸が締め付けられるような心地がするようになっていた。
もしかしたら、このまま別の何処かへ行ってしまうのではないだろうか。
私の手の届かないような、遠い遠い場所へと。








『あんただって、行きたいと望む一番の場所になら、いつだって行けるんだよ』

そう言って、彼が教えてくれたこと。
森に点在する、『ドアを開けて。行きたいところへ行けるよ』と喋りかけてくる、不気味なドアたち。
そのドアを開ければ、自分が一番行きたいと願う場所へと繋がっている。
ただし、『一番行きたい場所』へしか繋がっていないので、
二番目や三番目に行きたい場所へは行けないのだという。

そして、そのドアを開けて、そこへ行ってしまえば、今居るこの場所へは戻って来られないかもしれない、と。




もし、彼がこの森から、クローバーの国から突然居なくなったとして。
私は、その『一番行きたい場所へ連れて行ってくれる』、お喋りなドアを開いて、
彼のところまで行くのかと訊かれたら、
答えは、ノーだ。
私は、きっとそのドアを開けられない。



開けられない理由のひとつとして、私の心の迷いがあげられる。


ドアは、開けた人の一番行きたい場所を選んでくれる。
もし、彼が居なくなってしまい、私が追いかけようとして、
そのドアを開けたら、彼の居る所へ繋がる可能性は勿論ある。
だが、別の場所へ、例えば元の世界などへ繋がってしまう可能性だってあるのだ。
自分でも意識していなかった一番の場所を、選ばれてしまい、知らされることが・・・怖い。
一言で言ってしまえば、自信が無いのだ。
元の世界への未練も、遊園地への未練も、・・・様々な場所に未練のある私が、
彼のところへ必ず辿り着くという自信が。




そして、そこまでして私は彼に会いに行こうとするのかどうか、分からない。
ただの『友達』なら、時々思い出して懐かしみはするだろうけれど、
徐々に彼の居ない生活に慣れていくかもしれない。
それは薄情だ、と言われるのかもしれないけれど、
現に、ハートの国では仲良くしていた、居候先の家主であったゴーランドや、
共に仕事をしていた遊園地の従業員さんたち、
たまに時計塔まで会いに行ったユリウスの居ない、このクローバーの国に慣れてきているのだ。


勿論、彼が急に居なくなったら寂しい。ハートの国からクローバーの国に来た時だって、
ゴーランドやユリウスと別の国に来てしまったと知って、とても寂しかった。
でも、寂しいとは思いつつも、いつかまた会える日を楽しみにしながら、
日々を穏やかに過ごすのかもしれない。今のように。






様々なことを考えてはいるけれど、
結局、彼が居なくなったら私はどうするのか、その答えは未だ出せないまま。










出先から森へと戻ってきたとき、ちょうど道の反対方向からやって来た彼と鉢合わせした。

「お、アリスじゃん」

此方に気づいた彼は、笑顔を見せる。

「あんたは今帰ってきたところ?」
「ええ、今部屋に戻ろうと思って。そっちは今から出かけるの?」
「うん、ちょっと行くところがあるからね」
「・・・そう、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「ありがと。行ってきます」

彼はひらひらと手を振って、ぱたぱたと小走りで森の外へと向かう。
彼と私はすれ違って、別々の方向へと歩いていく。



そんなとき、また、あの苦しい心地が、心が押し潰されるかのような不安を覚えた。
彼が、このままこの世界から、私の目の前から消えてしまうような気がした。
そんなことにはならない、なるわけがない、何度も自分に言い聞かせる。
彼の名前を呼びそうになったけれど、何とかぎりぎりで喉まで出かかったその声を抑え、
彼のほうを振り返るだけで止まった。
もう結構な遠くまで行ってしまった彼の背中が見える。
彼ご自慢の、長くてふわふわのピンク色の尻尾がゆらりと揺れている。



彼を追いかけて引き止めるような権利は、私にはない。

だから、今の私には。

ちゃんと、帰ってきてね、・・・ボリス

心の中で、そう呟くことしか出来なかった。







まだ届かないその声は


(いつか、あなたに抱くこの気持ちに名前を付けられたら、この声は)


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