「ねぇ、アリス。
僕、ずっとずっと、この世界は白黒の世界なんだって思っていたんですよ」
昼の穏やかな空気の中、隣を歩いていた彼が、急にそんなことを言い出した。
「・・・まさか、色を見分けられないの?」
犬は、ほとんど色彩の認識が出来ないと聞いたことがある。
・・・ウサギもそうなのかは分からないけれど。
彼は普通の人と大体同じ姿をしているけれど、白くて長いウサギの耳が生えているし、
小さくて可愛らしい、本物のウサギの状態にもなることだって可能だ。
恐る恐る、彼の方へ視線を移す。
私のことも、白黒に見えていたりするのだろうか。
この少々子供っぽいような水色のワンピースに、白のエプロンという服装も、彼にとっては白黒のものに見えるというのだろうか?
「いいえ、そういうわけではないんですが」
「・・・なぁんだ、良かった・・・」
彼の言葉を聴いて、少しほっとする。
本当に彼の視界が白黒だったりしたらどうしようかと思ってしまったじゃないか。
「じゃあ何で、世界が白黒だなんて思っていたのよ?」
くるりと、後ろを振り返れば、遠くから見てもすぐに目に留まるであろう、
派手な装飾が施されたハートの城が見える。
そして、今私たちが歩いている庭にはたくさんの薔薇が植えられている。
薔薇たちは全て、ハートの城を統べているハートの女王様、ビバルディが愛する赤色だ。
芳しい薔薇の香りはこの庭園一帯を包み込んでいる。どの花も生き生きとしていて、葉も鮮やかな緑色。
視線を上へと向けてみれば、穏やかな青色が広がる中に、薄っすらとした白が漂っているのが見える。
今、私の目に映るのは白黒の世界などではなく、鮮やかに彩られた景色。
何故、彼は白黒の世界、などと言うのだろうか。
「白黒の世界っていうのは・・・例えですよ」
彼は歩みを止めないまま、話し始める。
「この世界全体が、どれだけ鮮やかな色で彩られていたとしても、
そのことに大した価値があるようには思えなかったんです。
どうせ、この世界なんて、ほとんど無意味なものばかりでしょう?
無意味なものがどれだけ飾り立てられようと、それは意味を持たない」
無意味なものは、何をしても無意味なもののままだからと、彼は言う。
「カラフルなものも、モノクロなものも、大して変わりはない。僕にとっては同じものです」
「そう思えば思うほど、世界は写真が年月を経ていくかのように色褪せていったんです。
気づいたときには、僕の目に映る世界の色は、濃いか薄いかぐらいの判別をつける程度のものに・・・白黒になっていました」
前方を真っ直ぐに見つめる彼の視線も、話し続ける彼の声も、ただただ冷たい。
「でもね、アリス。
あなたと出会ってから、変わったんですよ。全てが」
そこで、ずっと冷めた声で淡々と話していた彼の纏う雰囲気が、一変した気がした。
少し驚いて、隣の彼を見てみたら、彼の目に宿る光は、先ほどまでの冷たいものではなく、
温かく、優しい光だった。
彼が、私と話すときだけに見せてくれる、光。
「あなたと初めて言葉を交わしたとき、凄く驚いたんですよ。
この人には、色がある。綺麗な色をしている、と」
・・・私はそんなに綺麗な人間じゃないのに、と口を挟もうかと思ったけれど、
声が喉まで出かかったところで、止める。
彼が嬉しそうに話す姿は、あまりにも綺麗に見えて、
その姿を私の言葉で崩してしまうのは勿体無いと、思った。
「あなたが歩いた道や、あなたが触れたもの、あなたが居る空間・・・
白黒だったはずの景色が、どんどんと鮮やかな色に染まっていくように見えるんですよ。
真っ白な紙に、色のついた水を一滴落としたみたいに、
あなたが居る、この場所から、色が広がっていくんです」
彼は、先ほどまでの彼とは別人のように、幸せそうに語る。
甘くて、温かい、声で。
「今、この瞬間も」
彼は、そこで急に足を止め、こちらに向き直る。
私も、つられて足を止め、彼のほうへ体を向ける。
「あなたが、この世界に色を取り戻させていくんですよ、アリス」
彼が浮かべた表情は、今、私の頬を撫でていく穏やかな微風を、そのまま形にしたような、笑顔だった。
世界が色を取り戻す
(その笑顔は、私の顔を周りで咲き誇っている薔薇と同じ色に染めた)
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