左腕では十数枚の書類を抱えて、
その中から一枚抜き取ったものを右手に持ち、
内容を確認しながら廊下を進んでいく。
全く、陛下がサボらなければ、こんな仕事が余計に増えることはなかったのに。
大きな溜め息をひとつ。しかし、いくら溜め息をつこうとも、抱えた書類の束は消えない。
・・・先ほど、自分に任されていた仕事を全て処理し終えて、少し休憩をとろうとしていたところ。
この角を曲がれば自室、というところで、兵士に声をかけられた。
―ホワイト卿、申し訳ありませんが、こちらの書類の処理をお願いします・・・
そう言って恐る恐る差し出された分厚い書類の束。
ちょっとした図鑑を二、三冊重ねたよりも厚いくらいの分厚さの束だ。
―・・・僕はついさっき、自分の仕事を全て終えたはずです。
暫く、休憩をとるくらいの余裕はあるはずですが。
疲れているせいで、いつも以上に冷えきった声でそう返す。
―・・・女王陛下の姿が城内に見あたらないのです。
早急に処理せねばならないものなのですが、何しろ重要な案件ばかりで、私たちのような役なしの者に扱えるものではなくて…
・・・またか、と僕は溜め息をついた。
―・・・なら、いつものようにキングに回せば良いでしょう?何故僕が女王陛下のぶんまで仕事をしなければならないのですか。
―既に、これの倍以上の量を頼んでしまっているのです…
さすがにあれ以上は…
―・・・・・・・・・・・・。
その束を運んできた兵士を撃ち殺してやろうかとも思ったが、
それすら面倒に思えたので、中でも緊急を要する案件の一部を受け取り、(それでも十数枚はあった)
残りのものは先に執務室に運ばせた。
確かにここ数時間帯、陛下の姿を見ていなかったが、
これほどまでに仕事をため込んでいるとは思わなかった。
・・・一体、全てを片付けるのにどれほどの時間を要するのか。検討もつかない。というよりつけたくない。
あのヒステリックな女王陛下は何処で油を売っているのか。
帰ってきた所で、大人しく仕事をするとは思えない。
外出したせいで疲れた、眠い、などと言ってさっさと自室に戻るのが目に見えている。
エース君もここのところ姿を見かけない。
あの万年迷子、また道なき道を進んで目的地の逆方向にでも向かっているのではないだろうか。
仕事を片付けるのを手伝わせるのに、居ないよりはマシか・・・と思ったが、すぐにその考えは一変する。
居ない方がマシだ。
居たら居たで余計な面倒事を増やすに違いない。確実に、増やす。
兵士もメイドも使えない奴らばかりだし、この城の人間ときたらどうしてこう・・・・・・と、またもや溜め息が一つ。
・・・とにかく、さっさと片付けてしまおう。こんな面倒なもの。
再び目の前の書類に意識を集中させ、内容に目を通していく。
こうしていると、自然と書類以外のものが目に入らなくなる。
書類の文面だけが鮮明に映り、周りの風景などはぼやけてしまう。
書類に目を落とした僕には、反対側から誰かが来ても、見えない。
その場合には、相手から避けるだろう。
・・・もし肩などが少しでも僕に触れれば、撃ち殺すだけだ。
苛々は、収まらない。
いつも以上に冷たい空気を纏いながら歩く、僕の足音だけが廊下に響いている。
・・・いや、実際には別の何かが出す音や、他の誰かの足音が響いているのかもしれない。
しかし、僕の耳にはそのような“雑音”は届かない。
多分、僕が聴きたいと思う音が近くには存在しないからだろう。
聴きたくもない音など、いちいち耳に入れる必要はないのだから。
同じように、感知したいと思わないような存在にも、気付く必要はない。
だから、何も聴こえない。
僕の周りには何も存在していない。
両腕で抱えているのは、大きな籠。
その中には真っ白なシーツなどの洗濯物の山が出来ていた。
干したあとの洗濯物ならまだ軽かっただろうが、これらは洗い立てだ。
脱水を終えているとはいえ、水をたっぷり含んでいるので、かなりの重さがある。
ふわりと漂ってくる花のようなほのかに甘い匂い。洗剤の匂いだ。
しかし、・・・本当に、重い。
最近は夕方と夜の繰り返しで、なかなか昼が来なかったのだ。
昼の時間帯がようやく来た今のうちに、溜まりに溜まった洗濯物を干してしまわなければならない。
これも、メイドさんのお手伝いの仕事のひとつ。
自分から仕事が欲しい、と頼んでわざわざ回して貰った仕事だ。
自分に任された仕事だ。責任を持ってこなすべきだと思う。
・・・しかし、このハートの城の中でも地位が高い人たち、
役持ち、と呼ばれる人たちにはそのような考えが足りていないように思える。
いや、真面目に仕事に取り組む人も居るには居るのだ。
ハートのキング。彼が何かしらの理由をつけ、仕事をサボっているところなど、今までに一度も見たことがない。
しかし、彼はサボらないと言うよりサボれない、と言った方が正しいかもしれない。
彼はしょっちゅう仕事をサボるビバルディたちの代わりに、と大量の仕事を押し付けられているのだ。
先ほど執務室の前を通りかかったら、
真っ青な顔で何かブツブツと呟きながら一心不乱に目の前の山積みになった書類を片づけていた。
どう考えてもさらっと片付けられるような量ではなかったが、それらをたった一人で・・・
そういえば、先ほどビバルディを捜し回るメイドさんたちの姿を見かけた。
かなり切羽詰った様子で、ビバルディにそれなりに重要な用事があるらしいことは一目瞭然だった。
キングの目の前に積まれた書類の山、捜されているビバルディ。
これらのことから推測すると、多分、ビバルディがサボった分の仕事がキングに回されているに違いない。
しかし、現在ビバルディはこの城に居ないはずだ。
数時間帯前に、お前も一緒に街へ買い物に行かないか、と誘われたのだ。
けれど、その次の時間帯には仕事が入っていたので、ごめんなさい、と断ったのだ。
ちょっと不満そうな表情を見せたビバルディに、今度埋め合わせをするわ、と言ったら、何とか許してくれたのだ。
・・・今回は随分と買い物が長引いているのだろうか?いつもよりも帰ってくるのが遅いように思えた。
もしかすると、ショッピングを終えた後に、どこか別の場所に寄っているのかもしれない。
・・・出来れば、早く用事を済ませて戻ってきてあげてほしい。キングの為にも。
捜されている・・・といえば、エースもだ。
ハートの騎士であるエース。彼も兵士さんたちにしょっちゅう捜されているように思える。
ここ、ハートの城の軍事責任者であるはずの彼は、いつも壮大な旅に出かけてしまっている。
いや、普通の人なら旅、と呼ぶほどの距離もない、行き着くのにそれほど時間もかからないような場所へ行くだけでも、
こっちへ行った方が近道だ、と言って道なき道を進み、
あさっての方向へ向かいたがる彼にとっては立派な旅になる。
そんな彼が仕事熱心であるだろうか、いいやあるはずがない。
・・・少しは兵士さんたちの苦労も考えてあげようよ、と思うが、多分エースの迷子癖は治らないままだろう。
あれは重症だ。重症すぎて、治らないというか、治せない。
・・・と、色々考え事をしていたら少しだけよろめいてしまった。
少し覚束無い足元。ちょっと一度に運びすぎたか、と思ったがもう既に遅い。
とにかく、これをさっさと庭へ運んで、干してしまわなければ。
まだまだ、仕事は残っているのだ。
改めて籠を抱えなおす。
転んだりして洗濯物を床にばらまいたりしたら、また洗い直しだ。
足元が危なっかしいので、自然と視線は下へ向かってしまう。
つまり、前をちゃんと見ることが出来なくなる。
もし、反対側から誰かが歩いて来たら、あちらから避けてくれることを期待しよう。
ぶつかってしまった時は・・・ごめんなさい、だ。
幸い、今のところ辺りには誰も居ないらしい。
何故なら、特に音が聞こえないからだ。聞こえるのは、私の足音だけ。
足音が聞こえてきたら、・・・避ける努力は一応しよう。
かつん、かつん、かつん、かつん・・・
自分の足音以外、音の聞こえなかった僕の耳に、ひとつの音が届いてきた。
かつん、かつん、かつん、かつん・・・
少しだけ遅めなテンポの足音だ。急いでいるわけではないのか、それとも急げない理由があるのか。
かつん、かつん、かつん、かつん・・・
その足音は、僕の進む先から聞こえてきていて、此方へと向かってきているらしい。
かつん、かつん、かつん、かつん・・・
僕はこの足音を、知っているような、気がする。
カツ、カツ、カツ、カツ・・・
先ほどまで静かだった辺りに響き始めた、私の発するものではない、誰かの足音。
カツ、カツ、カツ、カツ・・・
少々早足になっているようだ。急いでいるのか、もしくは・・・苛立っている?
カツ、カツ、カツ、カツ・・・
私の進行方向から此方へと向かってきているようで、段々と大きくなる、足音。
カツ、カツ、カツ、カツ・・・
・・・私は、この足音を知っている気がした。
かつん、かつん、かつん、かつん・・・
・・・そう、あの人はこんな風な靴音を立てて歩くはず。
かつん、かつん、かつん、かつん・・・
やわらかな、足音を立てて、歩く。
かつん、かつん、かつん、かつん・・・
カツ、カツ、カツ、カツ・・・
確か、あの人はこんな靴音を立てて歩くはずだ。
カツ、カツ、カツ、カツ・・・
少し硬い、足音を立てて、歩く。
カツ、カツ、カツ、カツ・・・
僕の、
私の、
愛しい人。
足を止めて、顔を上げたら。
「やっぱり、あなたでしたか、アリス」
「やっぱり、あなただったのね、ペーター」
そう言ったあなたは、とても素敵な微笑を浮かべていました。
幸福の足音
>back